漢語音韻史入門--近世音篇(5)[初稿]

4.尖団の区別

後期近世音の重要なトピックの一つに「尖団の区別」というものがある。これはピンインの「j」「q」「x」で表記される音が、明代以前には2系列の異なる音声であったのが、清代中期以降にその区別を失って合流したものである。その2系列のうち一方を「尖音」、他方を「団音」という。伝統的な韻図の枠組みで言えば、「尖音」が「歯音」、そして「団音」が「牙喉音」に相当する。具体例を見てみよう。(IPAが表示できないため、ピンインの「j」「q」「x」に相当する音声をそれぞれ「tś」「tś'」「ś」で表示する)
例字 明代清代後期
尖音「将」 tsiaŋ tśiaŋ
団音「江」 kiaŋ
尖音「青」 ts'iŋ tś'iŋ
団音「軽」 k'iŋ
尖音「西」 si śi
団音「希」 hi

日本漢字音(=音読み)で読めば、尖音が「サ行」「ザ行」、そして団音が「カ行」「ガ行」であるから、日本人には尖音と団音の識別は容易である。

はたして尖団の区別が失われたのはいつか、これが近世音研究においてしばしば取り上げられるテーマであった。しかしこの問題設定それ自体がすこぶる複雑な問題を含んでいる。第一に、尖団の区別の消失という場合、ある一部の人々に尖団の混同が生じた時点を言うのか、それとも標準音(あるいは北京音)においてほとんど全ての漢語話者が尖団の区別を失った段階を言うのかということが問題になる。実際にはこの二つを区別するのは容易ではないが、少なくともある個人の随筆など、断片的な資料によって標準音の体系全体を論じるのは適当ではあるまい。第二に、牙喉音の舌面音化(ki->tśi- など)と、尖団の区別の消失とが、資料の上で区別がつきにくいことが挙げられる。例えば、京劇におけるような尖音「tsi-」と団音「tśi-」の対立は、満洲文字やハングルの資料では区別する方法がないのである(一様に{J-}で表記されることになる)。

花登正宏「牙音の舌面音化について」(『集刊東洋学』65号、1991)には、そのタイトルの通り、牙音の舌面音化に関わる資料が列挙されており、参考になる。それらを見渡すと、17世紀の北京において多くの役人が団音を「tśi-」「tś'i-」「śi-」と発音していたことは、おそらく間違いないと言えそうである。とりわけ永島栄一郎氏によって紹介された1662年の官印「琉球国王之印」において、「琉球」を満洲文字で「lio cio」と表記している点は重要である。公に認可された印において団音の「球」が「cio」(これは音声としては tś'iu を表す)と表記されているわけであるから、個人の観察による随筆類とは次元が異なる。さらに山崎雅人「『大清太祖武皇帝実録』の借用語表記から見た漢語の牙音・喉音の舌面音化について」(『言語研究』98、1990)も、ヌルハチの満文実録の中から、「監軍道」を満洲文字で「jiyan jiyūn doo」と記すなどの例を追加している(「監」「軍」ともに団音)。

このように、17世紀において牙喉音の舌面音化がかなり広まっていたと考えられるが、上述のように、そのことは必ずしも尖団の区別の消失を意味しない。具体的に言えば、尖音と団音は合流してともに「tśi-」「tś'i-」「śi-」になっていたかも知れないし、尖音「tsi-」「ts'i-」「si-」、団音「tśi-」「tś'i-」「śi-」という形で区別されていたかも知れないのである。これに関連して興味深いことは、清代中期以降の満洲文字資料では、漢語音表記における尖団の区別が原則として明瞭に保たれているということである。例えば、「清文啓蒙」は「cing wen ki meng」と表記され、尖音「清」と団音「啓」は満洲文字{C}と{K}で区別されている。これをどう理解すべきであろうか。

清代中期(乾隆年間)は、辞書編纂などを通じて満洲文字の表記法の規範化が進んだ時期である。その規範化において、尖音と団音を別の文字で表記し分けるのが妥当であると判断されたことになる。もしもこの段階ですでに尖団の区別がほとんどの人になかったとすれば、このような規範化がなされた理由が説明しがたい。少なくとも発言権のある多くの人々にとって尖音と団音は区別されるべきものと見なされた訳であるから、清代中期以前の標準音においては尖音と団音は(尖音「tsi-」「ts'i-」「si-」、団音「tśi-」「tś'i-」「śi-」として)区別されていたと仮定することは許されよう。

しかしまた、この時期にすでに一部の人々には完全な尖団の合流が生じていたと認めるべき資料も存在する。落合守和「翻字翻刻≪兼満漢語満洲套話清文啓蒙≫(乾隆26年、東洋文庫蔵)」(『言語文化接触に関する研究』1、1989)で扱われた、満洲文字による漢語音表記がそれである。そこでは団音に対してしばしば満洲文字{J}{C}{S}が用いられるだけでなく、逆に尖音に対しても{G}などが用いられている。例えば尖音「就」は「gio」と表記される。これは一種の過剰矯正と見なしうるが、尖団の区別が消失していたことを前提にしなければ理解できないことである。

以上のような状況から得られる結論は、結局、半世紀近く前に藤堂明保氏が「ki-とtsi-の混同は18世紀に始まる」(『中国語学』94号、1960)において論じたものと大差はない。ただし「ki-とtsi-の混同」はより厳密には「tśi-とtsi-の混同」ということになろう。17世紀において表面化した団音の舌面音化(ki->tśi- など)は、18世紀になると徐々に尖団の合流に向かい、遅くとも19世紀初頭にはその合流が標準音においても完成したと言える。藤堂氏の見込みが、他の資料の出現によって数十年ほど繰り上がることはあるかも知れないが、今のところ大勢は動かないようである。

花登(1991)では、太田斎「尖団小論」(東京都立大学『人文学報』140号、1980)の論ずる所によって、丙種『西蕃館訳語』阿波国本におけるチベット語の漢字音訳が、16世紀における尖団の合流を示す資料として挙げられている。しかし、太田氏自身はその後「[資料]丙種本西蕃館訳語稿本(稿)」(神戸市外大『外国語研究』17、1987)の「注6」において、「漢語では尖 ts ts' s :団 k k' x もしくは c c' ç であった」という可能性も考慮しつつ、この資料の性格については「なお十分慎重であらねばなるまい」として結論を留保している。

この記事へのコメント